今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ
あなたに与えられているものとは何だろうか。
それはあなたが心であるという智識である。
あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており
愛によって創造されたので永遠に罪はなく、まったく恐れを知らない。
そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。
あなたは今日、何を与えることを学ぶのだろう。
体験は、心眼のように直接共有することはできない。
父と子がひとつであるという啓示は、いずれは誰の心にも訪れる。
だが、その時がいつなのかは、その心自身により決められており、誰かに教えてもらうものではない。
その時間はすでに定められている。
時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である。
教師は体験を与えることはない。
彼はそれを学んで得たわけではないからである。
体験は定められた時間に、おのずと彼に開示されたものである。
世界の中にありながら、赦しと愛によって神聖になった静かな場所がある。
すべての対立はここで和解する。
今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。
誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。
キリストによる赦しの中で罪は消え去っている。
一なる存在の目に入らないので、罪はただ消えていく。
こうしてあなたは自分が受け取る通りに与えることを学ぶ。
自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、
このレッスンを習得するのは難しくない。
もし彼の中に光を見るなら、あなたの罪はあなた自身により赦されている。
今日あなたが出会う兄弟1人ひとりが、
キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、
あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。
その贈り物の中には、真の知識が正確に反映されているので、目には見えないその聖性がその形にも共有されている。
不滅の愛で輝いている。
今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する。
そして、私たちが与える神聖な贈り物により、キリストの心眼が私たちの上にも注がれる。