自分自身についての疑念や不信を超越できる自らの能力を信じ
その信を抱き続けるには 兄弟への信頼が不可欠である。
兄弟を攻撃するとき、あなたは
自分が彼の中に知覚したものによって彼が限定されていると宣言している。
彼の誤りを超えたところを見てはいない。
兄弟の罪に焦点をあてるのはやめなさい。
彼らの間違いに焦点が置かれるならば
それはあなたの中の罪の証言となる。
そうなると、あなたは罪が見える視界を超えて
その向こうにある無罪性を見ることはない。
今日の練習では、自分の心に対し
ほんの少しの間、自分が求めるのはこれだけにするという指示を与える。
未来のゴールは気にかけない。
一瞬前に見たことも関心をもたない。
今という時以外には関心をもたずに、それだけを追求する。
過去の信念も見ることはしない。
未来に信じるようになる信念も
今の私たちには侵入してこない。
兄弟の罪が思い浮かぶなら、私たちの焦点は狭まっており
それにより視覚は制限され
目は自分自身の間違いに向けられ
私たちはそれを拡大して自分の「罪」と呼ぶことになる。
だからほんの少しの間、過去も未来も気にかけず
そのような障害が生じたなら
次の言葉で、自分の心に焦点を変えるように指示し、乗り越えよう。
★私が見たいのは、これではない
私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する
私たちは空想を求めることもしない。
私たちがみようとしているものは本当にそこにあるからである。
間違いを超えたところに焦点が移行するとき
私たちは完全に罪のない世界を見るようになる。
真の知覚の名においてこれだけを求めるとき
キリストのまなざしが必ず私たちのものとなる。
そしてキリストが私たちに対して感じている愛も
私たちのものとなる。
私たちは世界と自分自身の中に、この愛の反映だけを見るようになる。
私たちは未来も過去も見ることはしない。
ただ真っすぐに現在を見つめる。
そして、私たちが今求める体験を信頼する。
私たちの無罪性は神の意志にほかならない。
この瞬間が、私たちが神の意志とひとつになることを意志している瞬間である。